人と「土」の関係で、まず土器の誕生を取り上げてみました。では、住居はどうでだったのでしょうか?古代の日本では竪穴住居と呼ばれる半地下の住居に住んでいたと言われています。ほぼ5×5メートルの面積で、地上から1メートルほど掘り下げて穴をあけ、その上に屋根をかけた建物です。竪穴住居は、縄文時代、弥生時代、古墳時代を通じて日本列島の大部分で一般的な住居でした。
佐藤嘉一郎氏と佐藤ひろゆき氏の著書「土壁・左官の仕事と技術」の中で「土壁の誕生」について興味深い説を展開しています。佐藤嘉一郎氏は江戸時代から続く左官業で、数寄屋や土蔵の左官仕事を主に行っているプロの職人さんです。
古代の人は、土と水が混じって乾くと固くなることを経験的に学んでいました。竪穴住居は、室内を掘り下げているので、掘った土を周辺に盛り上げることで、雨水の浸入や野生動物から食料を守ったのです。しかし、ただ盛り上げただけでは雨水で崩れるので、土手の表面を木や石で叩いて固めたり、場合によっては水と練り合わせた泥状の壁土を作って、土手の表面に塗る方法が後世における壁塗りの始まりではないかと佐藤氏は推測しています。
しかし、土と水を混ぜ合わせただけでは、乾くとクラックが生じるために、植物を細かく切ったスサを繋ぎとしていれることが考え出されたのです。初期には、植物の葉や茎が使われましたが、農業が営まれるようになると、米を収穫した後の稲藁(いなわら)が主に使用されるようになりました。
これを現代の化学で説明すると、土と水と稲藁を練り合わすと発生する一種のバクテリアが、発酵を促して植物繊維をやわらかく分解し、また糊の役割をする粘着成分が作られて、壁土が堅くなると実証されています。古代の人々は、藁スサを利用すると土壁が硬くなり、衝撃にも強くなるということを長年の試行錯誤と体験から、この方法を編み出したのではないかというのが、佐藤氏による土壁誕生の物語です。
日本最古の土壁は、奈良県の法隆寺西院の伽藍の金堂および五重塔の壁画下地の土壁で、これらは創建当時のままだとされています。また同県の山田寺遺跡からも土壁が出土し、これは年代的に法隆寺よりも古いものです。その一方で、飛鳥時代以降には、土壁仕上げではなく白色の壁土が塗られるようになりました。土壁の表面に白粘土と糊とスサを練り合わせた材料を用いて、金属製の「鏝(こて)」で丁寧に仕上げて乾かした後に絵画が描かれました。高松塚古墳の壁画の下地も同様に仕上げられています。この頃から、何も描かない壁の仕上げにも鏝が使用され、より滑らかな美しい壁が登場しはじめたのです。


